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T2ブルーインパルスの世界

国産超音速練習機T-2で6機編隊でのアクロ飛行を確立

2代目ブルーインパルスは、1982年1月、松島基地第4航空団第21飛行隊内に「戦技研究班」として発足しました。

遡る1980年10月に、T-2ブルーの塗装デザインが一般公募され、翌年1月に女子高生4人の合作による案が採用されました。

(当初はゴタゴタしたデザインで評判が良くなかった・・・)

細身のT-2にマッチしたデザインだと言われたのは、やっぱり見慣れたためでしょうか??

1995年8月6日 T-2ブルー

千歳基地でのラストフライト

まずT-2ブルーインパルスにおいて

浜松基地航空祭で殉職の4番機高嶋一尉

金華山沖訓練で殉職の2番機式地一尉

金華山沖訓練で殉職の4番機濱口一尉

3名に対し心より哀悼の意を表します​。

1995の千歳基地でのブルーインパルス展示飛行

それはいつものように、いつものウォークダウンから始まりました。

来年に引き継がれていくT-4ブルーインパルスへの期待と、やはり浜松基地での事故で、ブルーは終わった・・・と思った瞬間がフラッシュバックしたことを思い返す。

千歳基地の天候は、雲は多めだったが青空も見えるまずまずの条件

​こちらも最高の体調でカメラもベストな状態で、36枚撮りフィルムも10本ほど用意しました(その現像とプリント代がすごかった)

昭和55年に新隊員課程から術科学校を卒業して千歳に赴任してきた年はまだハチロクブルーの時代で、初任給が85800円・・・ひとつ号棒が上がっていたが基本給が96100円ではカメラも買うわけにもいかず、記録より記憶の長い時代が続きました。

当時の自衛官(特別職国家公務員)の給料が安いこと安いこと

危険な職業だからって生命保険に入らされたので、手元にはほとんど小遣いは残らない時代でした・・・

F-86ブルーインパルスを初めて見たのが航空自衛隊に入隊して熊谷基地に着隊してすぐ 

1979年(昭和54年)例年4月に実施されている「桜まつり」で、当時は秩父セメントと言っていた3本の煙突ギリギリの高度で5機のハチロクが曲技飛行を行った時には、正直これが人間が操縦しているのか?と・・・

まるでサーカスを見ているような、まさに青い衝撃を感じました。

その後は千歳基地に配属されたものの、24時間のシフト勤務であるし、まだまだ休暇を取るような身分でもないのでハチロクブルーを見たのは、その熊谷基地のみでした。

空士長に昇任し、ある程度仕事が出来るようになったのと後輩隊員が仕事が出来るようになって、ようやく年次休暇(シャバでいう有休休暇)をとれるようになった頃から航空祭には必ず行くようになり、根室に転勤になってもマイカーで7時間かけて千歳基地に行くように!

​なんだか芸能人の追っかけみたいだが、場所取りとカメラワークの技術はかなり上がったと思う。

ハチロクブルーは結局のところ熊谷基地で見たのが最初で最後になりT-2ブルーインパルスの時代となった。

それ以前の人たちには、曲技と曲技の間隔が長いと言われていたが、私にはそうは感じなかった・・・

もちろんT-4の時代になったいまでも、当時のT-2の演技はシャープで大型機らしい迫力があって、離陸時にはアフターバーナーとスモーク使用時のトーチング(炎を吹いていた)が独特だった。

ただ、忘れられない出来事が浜松基地での航空祭での墜落でした。

1982年7月25日のT-2ブルーのデビューからわずか7回目のホームベースでの展示飛行中に下向き空中開花で、4番機の高嶋機が基地郊外の駐車場内に墜落し高嶋1尉が殉職し、周辺住民12人が負傷するというブルー史上 未曽有の事故となったとき。

​同期と食事をしていたときにニュースで繰り返し映像を見たときには「これ以降はブルーインパルスの演技は見れない」と覚悟した。

​たぶん日本全国のブルーファンがそう思ったに違いない。

それからというもの徹底した事故調査が行われるなか、関係者はもとより多くの支援者の献身的な努力により1983年2月に飛行訓練が再開されることとなった。

レギュレーションや訓練環境など様々な見直しを経て、10月30日に陸上自衛隊朝霞駐屯地で開催された観閲式における観閲飛行から展示飛行を再開した。

事故からアクロ展示飛行の再開まで約2年の月日を要したことになるが、その後の展示飛行は全般的に高度が高くなり、また気象制限や事前訓練の規定なども厳しくなるが、着実に実績を重ねて信頼を取り戻してきたのです。

しかし1991年7月4日にふたたびブルーに悲劇が訪れます。

金華山沖での訓練中に2番機と4番機が墜落・・・

​原因は低高度でシーフォグ(海霧)のなかに入ったリーダーが空間識失調(バーティゴ)に陥り、低空で意図せずバンクさせた結果とされている。

2度目となる事故は、組織の根幹を揺るがす深刻なダメージを与え、当然ながらチームの存続の可否に関しても論議が交わされた。

残されたメンバーをはじめ、関係者は原因の徹底や安全対策についてひたすら地道に取り組んで、翌1992年8月23日の松島基地航空祭において展示飛行を再開した。

この写真が私とT-2ブルーの千歳基地における最後の撮影である。

F-86ブルーと比べると比較的短い間でその役目を終えたT-2ぶるーであるが、その超音速で飛行できる能力はスピーディでありシャープに大空を駆け抜けたその姿は、私だけではなく多くの人を魅了した。

代々そのDNAを受け継いだT-4ブルーインパルスは、短命に終わったT-2の意志を引き継いで我々に感動を与えてくれると思います。

T-2ブルーは、とにかくお疲れさまと言いたい!!

そして時代はT-4 ドルフィンブルーへ!!

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